館長コラム◆◆  

家舎離否家舎離
 

支援を必要とするところには必ず何らかのトラブルが存在する。過去20年余り、紛争地といわれる地域へ立ち入る機会が多い。好んで危険な地域に立ち入っているわけでも無く、私が出会いを望む人々の多くはそういった地域に生活しているだけの事である。

 今年6月と7月の二度、フィリピンのミンドナオ島南部イリガン市などを訪問した。2007年に米軍のイスラム教徒の方々に対する医療ミッションに同行してから現地の方々との交流をもち三年前にイリガン市に亜範ミンドナオ教育センターを開設し度々訪問している地である。センターのコーデネイターは日本館総本部で修行を積んだアバ ヤンチャ先生。亡くなった彼女の父親はこの地域の長であった人で、病院を寄付したりボーイスカウトの設立もした人望の厚い人であったという。そういった父親の遺志を受け継いだのか、イスラム教徒とキリスト教徒の長い紛争の続くこの地域にあってイスラム教徒の闘争活動家すら穏やかにしてしまう不思議な力を彼女は持っており、敬虔なキリスト教徒である彼女のもとには多くのイスラム教徒の門下生も集まっている。

 訪問中こんな話を聞いた。女性合気道指導者として活躍する彼女を甘く見てか度々センターに嫌がらせをする近所の男がいたそうである。腹に据えかねたイスラム教の生徒がある有力なイスラム活動家に相談したとの事。センターの支持者であり私の友人で自宅に道場まで持つこの活動家が「それはけしからん」と彼の家を訪ねて放った言葉は「いい家に住んでますね。私は貴方が好きです」の一言。彼はそれ以後センターに近付かないどころか町で会っても避けるようになったとか。平和な国で暮らす方にはこの言葉がどんな意味を持っているのかピンと来ないかもしれないが誘拐や見せしめの為の破壊対象にされる事はこの地域で金ピカの生活をするキリスト教徒にとって最も恐ろしい事なのである。
だが、この恐ろしさを逆手にとって、イスラム教徒の行為として事件を覆い隠そうとするキリスト教徒も存在し双方の間に大きな不信感が生まれてしまう。
当然、相反するキリスト教徒にも地下組織武装集団が存在する「豚狩り」と称する狙撃グループである。イスラム闘争家の首には有志による懸賞金が掛かっている。南部山中にあるイスラム地域で地域リーダーをする若い平和活動家のイスラム女性は背中から腹部への貫通銃弾根が2箇所ある。兄の運転する車の助手席で被弾し腎臓を一つ失ったが奇跡的に命は取り留めた。彼女の身体にはまだ破片が残っており摘出の機会を待っている。


弾痕がそれて奇跡的に助かった

本間館長の応急手当を受ける狙撃被害者

 アブサヤなど国際テロリストと深い関係を持つイスラム武装勢力のコマンドリーダーを四年前に訪問したときは「狙撃を受けたばかり」とかでクッションの下に拳銃と手榴弾を隠して療養中のときであった。足首貫通とコメカミ横の銃創を見せてくれた。正にアト数ミリの命であった。今回の再会ではミンドナオ全島の幹部の一人となったとかで相変わらず元気でやる気満々であった。狙撃をした者が「豚狩り」グループであるのか、あるいは分裂した組織によるものなのか、被害者の証言だけでは判断の難しい長くそして深い憎悪と人間不信が存在している。双方に多くの犠牲者が存在し「犠牲者が犠牲者を生む」悪循環を断ち切らない限り悲劇は繰り返される。こんな物騒な事が日常平然と存在するイリガン市近辺で日本館亜範ラーニングセンターは、キリスト教徒イスラム教徒のニュートラルな無闘争接点の道場として成功している拠点のひとつなのである。
 しかし私共がいかに無闘争を唱えてもそれは私共の片思いに過ぎない事案も発生する。6月の訪問時にイスラム教徒である海漂民バジャウ族のニューライフセンター建設を進めていたが、その建築作業にボランテアとして積極的に参加されていたキリスト教徒の同志が帰宅途中にバイクに乗ったヒットマンに射殺されると言う悲劇が起きた。彼の誕生日の悲劇であった。彼はマルコス、アキノ、アストラ、アロヨ、の四大統領の警護官という経歴を持つ方で、軍務退役後はその経歴を語る事も無く地域の安全や青少年の健全育成に努めていた。特に亜範活動には積極的に参加し合気道の稽古も熱心であった。数週間後、すでに3人もの退役軍人を殺害していたイスラム教徒の殺し屋は逮捕され、この青年に殺害を依頼した人物は明白となっていても報復を恐れて証言する者も無く、死刑の無いフィリピンでは仮釈放つきの終身刑程度に収まる公算が強い。ちなみに殺し屋の相場は500ドルから、今回は僅か1000ドルであったと言われている。


狙撃被害者は絶えない

私の7月の訪問は海漂民バジャウ族の方々のニューライフセンター開所式のお祝いとそのプロジェクトに大きく貢献した方の葬儀参列と言う複雑な訪問となってしまった。前記紹介したイスラム武装勢力のコマンダーがこの事件を知り、45口径のピストルを持って亜範日本館ミンドナオセンターを訪れ「そいつは俺が撃ち殺してやる、そんな奴がいるから和平が進まない」と乗り込んできたとか。私は彼のこういった一本気な性格が好きで、彼がもし正しく民主主義のルールを理解してくれたら地域にとっては大きな役割を果たしてくれる人物と思っている。

 いずれにせよ物騒極まりない環境であるのは明白ではあるが米国に戻り気軽な仲間にこういった話をすると「そんなところに行って危険でないのか」と聞かれる。私は「何が?」と質問をそらしてから「危険な国に行くにはそれなりの注意をし、たとえ発生しても(矢張り)で済むがもっと怖いのは安全といわれる国で突然発生する事件のほうだ、危険地域もアメリカも同じ事」と答える。もちろん、こういった地域に入り込むには最大限の注意を払い、私なりの幾つかのルールを守る。最も大切なのは「郷に入れば郷に従え」の諺の通り、訪問する地域住民に対して敬意を持ち、目線を決して高くせず、政治、宗教、民族、権力などとは常に無知無関与の立場を貫き徹底して話を聞くことである。其れが「ただいま」と云って日本館に戻れる最大の秘訣といえる。

 ところで、私の門下生ですらなぜ合気道の先生が一年の半分以上も道場を留守にして「とんでもないところ」でシャベルを持ちハンマーを振るいセメントを担いでいるのか理解できずフェイスブックで「GAKUはもう合気道を指導しない」などと書いた愚か者もいるほどであるからして、紛争地での支援活動を道場と捉える私の考えを理解するには難しいかもしれない。少しそのことについて述べてみる。
 
 試合形式をもつ合気道団体も幾つかあるようだが合気道開祖植芝盛平の合気道には試合が無い。試合は死あい(相、合)でもあると私の師である植芝翁は説かれた。「武は愛なり」とも喝破した。この心境と極めて共通した教えを残している剣術家がいる。江戸時代(1603−1868)に徳川家の剣術師範として興隆を極めた柳生新陰流の柳生宗矩が完成させたという「無刀取り」や「活人剣」の極意である。歴史に残るこの剣術家が死の間際に家族に残した言葉「床の間の刀を一度も抜かずに済んだ、この後もこれを家訓とすべし」も有名である。合気道の指導者の中にはこの「無刀取り」を「相手の打ってきた剣や杖を素手即ち無刀で取る」といって大衆の前で演武をしている者もいるが、剣道や居合道の練達者に言わせれば笑止千万の事であろう。全く語源を理解していない指導者も多いのである。
 無刀で取るとは武器を用いず剣を納めたままで争い避け政を治める事を意味する。受身を取るために雇われて居るような若手指導員が決して当たらないように打ち込んで行く木剣や杖を取って投げ飛ばし拍手を浴びるレベルのものではない。合気道指導者を名乗る者は飛んでくれる受身を投げて満足する事ではなく、修行で得た体験を社会に生かしてこそ指導者であり、道場に篭り武術の衣をまとっただけの人生ではとても武道家などとは云えない。
 合気道に縁を持って50年、アメリカに渡って39年余り、お陰さまで現在の私が在るのは米国生活に於ける貧困と差別、たわいも無い同胞からの中傷、そんなジャングル生活の中でそれを肥やしとして立ち居振舞ったからにほかならない。独立道場として組織も支援も無かったなかでの苦しい体験こそが私の現在を築いたのである。貧困や差別、中傷というものがどれほど人生を左右するものか私自身この身体に染み付いている。這い上がったものだけが理解できる心境である。心無い同胞に騙され筆舌に尽くせぬ差別にさらされ、橋の下で生活し河原の草を食べた事など多くの門下生は知らない。私が路上生活者の食事支援を続けたり、各国の困窮者への積極的な支援活動を行なうのもこの積み重ねられた体験からである。私にとって過去の苦しい体験こそ最大の人生の収穫であった。
 私が一人米国に渡り今日に至るまでの合気道人生から学んだ修行成就の集大成こそ亜範活動であるが其れは決してゴールではない。求道者としての私にとって更なる一歩が一切の合気道の技も稽古着も袴も武器もそして「先生」「師範」などの肩書きも捨てて立ち合える姿を養う「無刀取り」の境地への挑戦であり、その道場こそ世界で展開する亜範活動の場である。
 
   我々武道家は必ず道場を去らなければ成らない時がやってくる。その時に備えて身を整えなくては成らない。道場で高齢であるだけの価値観のまま倒れるのでは武道家としては未完成である。死ぬまで武道一筋と言う事はゴールテープを全力で走り切る事ではないと思っている。私が考える武道家の生涯とは、経験豊なパイロットのように離陸、水平飛行ができ、何よりも静かに穏やかに目的地に着陸できる状態に自らを整える事であると思っている。
 
 バングラデッシュでは両手両足のない子供が荷車に乗せられ物乞をしていた。 インドの近代的オフィス街の歩道の真ん中に裸の赤ん坊が置かれ人々はその赤ん坊をまたいで仕事場に急いでいた。ミヤンマーの宗教争いでは切り裂かれた多くの遺体を前にした。ミンドナオで海漂民バジャウ族の子供がゴミの中から食べれるものを口にしていた。そしてどこの悲惨な現場にも全く無力な「武道家のGAKU本間先生」がいた。そういった旅のあと米国の総本部に帰館し暫らくはウツ状態になる。が「待てよ」となる。ウツになるほど悩んでこそ身をもって問題に取り組める。ただひたすら自己のウツから這い出す為に私財と体力を費やし孤児院を建て支援センターを建てる。政治も宗教も民族も権力もそして私欲も関係ないゼロ以下の心境になったとき私は銃も剣も恐れない「無刀の心境」となり限りない力が蘇えり、合気道開祖植芝盛平翁が我々直弟子に残した「武は愛なり」の実践者としての使命感が沸いてくるのである。たとえ異国の紛争地で終えたとしても決して背を向けなかった人生であれば一切の悔いは無いとの思いがある。

 本年6月、ミヤンマーの宗教紛争地シトウエイに50人収容の孤児院が完成、7月末にはフィリピンミンドナオ島イリガン市のバジャオの方々の集会所が完成した。私にとってアジア八棟目の支援建築である。
 思えば道場に落ち着く事無く各国を自由放胆に飛び回る生活の私でありながら日本館総本部の亜範活動や私個人を支援して下さる方々がなんと多いことか。「人生は溺れた池から這い上がった時にしか浮き袋は貰えないのだ」と考え努力した頃に比べれば雲泥の差である。現在の恵まれた状況に感謝しながら次の策を練っている毎日である。「 家舎離否家舎離」私は道場を離れていても一歩も道場を出てはいないのである。無刀で現実社会に飛び込み己を常に切迫した状態に置き、その体験と心境を道場での稽古に生かす。求道者として実践武道主義「Engaged Budoism」を探求する私の現在の心境はそこにある。門下生にはこの点を充分に理解していただきたいと願っている。
 


                        日本館AHANファンダー
                        日本館 館長 本間学
   平成25年8月1日記
                        


 


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