館長コラム◆◆  

■感謝のカタチ
イタリア訪問のホスト役となったサムエル・オノーフリ先生と奥さんのアローラさんは路地から路地に観光客の間をすり抜けるように我々を案内し、地元ッ子の面目を見せてくれました。二人は得々の手振りを交えて、その町を、歴史を、美味しさを、そして人情を説明してくれました。特に歴史を語るときは「ベリーベリー、ベエーリーオールド」と必ず3度もつけました。勿論、手振り付です。
何しろ話が紀元前まで戻り、その巨大な遺跡が目の前にあるのですから、3度どころか4度だって構いません。手だって振り切れてもおかしくありません。
ダウンタウンの古いビル街に入って、古さ美しさに感動する私に「この辺は新しい地域、500年位のもんかな」と手の振りもありません。


お気に入りのアイスクリーム屋で
中央 サムエル先生 隣 同行のリック指導員

アローラさん、エミリーAHAN会長

私達が滞在したのは、ローマから1時間ほど南西にある港町アンジオ。暴君として有名なネロ帝の広大な避暑屋敷の遺跡があるためか、イースターの休日を楽しむ人々で賑わっていました。でもそれは「ごった返す」と云うものではなく、寄り添って歩く初老のカップルや、カプチーノのカップを片手に得意の手振りに全身の動きを添えて話込んでいる人々など、時間の流れは緩やかで、人々は優しく世話好きでした。夜の8時にやっと開くレストランでは大げさと思えるほどの歓迎を受け、テーブルに向かった人々はオリーブ油とガーリック程度で味付けした山海の恵みを前菜に、パスタやピッザを腹いっぱい食べ、よく飲み、デザート用の胃袋も別に持っているようでした。でも不思議な事にダイエットの必要がーーと思える人も少なく、米国で流行の「低炭水化物ダイエット」など嘘のようでした。楽しく陽気にバランスよく自然の恵みを食することが1番のダイエットなのか、などと自分で勝手に結論を出し、私はその結論を実践しました。

イタリアの基本道場(サムエル・オノーフリ先生)の招聘で知的障害者厚生施設「自然ソーシャルセンター」と云う非営利団体の支援講習会の指導に行って来ました。
今回の訪問は来年の本格的なイタリアAHAN活動展開のため、日本館AHAN活動の紹介を目的とした予備的な訪問でしたが40人余りの合気道家が集まっての講習会となりました。皆さんはとても稽古熱心で、レベルも大変に高いと私は感じました。60年代中頃より合気会本部派遣師範となって合気道の普及に努められた、合気会本部師範多田宏9段のご苦労にその源があり敬意を表するものです。  
この会で集まった講習会費は全額施設に寄付、往復交通費、滞在費など一行3名分は日本館AHANが全額負担し、指導料も戴いていません。
支援講習会とは、ただ単に寄金募集だけを目的とするものではなく、社会の陽の当らないところで貢献をされている方々や団体、余り馴染みのない問題の社会的啓蒙や紹介をすることでもあり、それは寄金を集め寄付する以上の重要なことと日本館では考えています。支援対象団体の選出は自治体や宗教関係などの大きな支援のある団体は極力避け、事前に充分なリサーチをした上で選出されます。しかし小さな団体ほどキャンペーン能力が乏しい為、探し出すのが難しく今回もサムエル先生と奥様のアローラさんの大きな活躍がありました。合気道を稽古する事が「自己のため、そして求める人のためになる」AHANキャンペーンはイタリアの小さな道場でも始まりました。来年は多くの合気道家に更に呼びかけて規模を拡大することになっています。


施設所長マロー タウラリー氏に寄付を手渡す本間館長


施設の前で

施設のスタッフの方々と

今回のイタリア訪問にはもう一つ大きな意義がありました。私のアメリカ生活で強い印象に残っている3人のイタリア系アメリカ人に対するものです。

トニー・グラジアーノ先生。本業は優秀な警察官でフロリダ州メルボルーン市のメルボーン合気会の道場長でした。私がまだ明日の食事にも困っている頃の7年間、毎年5月になるとフロリダの彼の道場に招待し講習会をさせてくれました。私より年長でありながら私に対する忠誠心は石のように強固で、デンバーにも数回、やはり亡くなったDr,ウオーカーなどと訪れてくれました。食道癌と宣告され、手術後5日に見舞いに行った私に、浴衣姿で木剣を手にベットに起き上がり、無言のまま胸を開きその大きな傷を見せ、痛みに耐えながらもニッコリ笑った「サムライ」でした。その後数年にして永遠の別れをしました。40歳を僅かに過ぎた早い別れとなりました。

チャールズ・デロー先生。米国で合気道を始めた頃からの門下生の一人で、振り向けば必ず私の後ろに立っていてくれました。彼も私より年長の為、相談事をするのですが答えは常に「貴方がボス、俺は従うだけ」と手振りを交えて云うだけで彼もまた忠誠心の塊のような男でした。その頃まだ労働許可証(グリンカード)がなく、合気道だけでは生活も出来ないでいた私に夜間のビル掃除の「潜りの仕事」なども世話してくれました。永い間子供クラスを手伝ってくれていましたが、事業の関係でミルウオーキー市に移り、現在では、唯一彼の道場だけが「日本館」の名前が使われ、息子のエドワード君が先頭に立って指導しています。




ドン・プラッタさん。46歳、常に陽気で、世話好きで誰にでも好かれる彼は、10年ほど前に始まった日本館の移転改築工事に「マー失業中だし時間もたっぷりあるから」と云って2年余りに渡った工事に毎日早朝から深夜まで嫌な顔一つしないで働いてくれました。勿論食事以外は一切無報酬です。日本館のレストランがオープンした時は腰の釘袋をはずして、長い経験のあったレストランマネージャーに変身、レストラン事業成功の原動力となりました。彼の仲間思いの優しさと忍耐力には本当に驚かされました。






私はこの3人の方々に多いに励まされ助けられ、いつの日かは恩返しをしたいと思っていました。同時に、この素晴らしい人たちのルーツに触れてみたいとも考えていました。
今回のイタリア訪問によって、私の願いは実現し、感謝の心は祖国の若い合気道家カップル、サムエル君とアローラさんにしっかりと受け取られ、知的障害者厚生施設の支援活動として還元しました。この活動はトニー、チャールズ、ドンから祖国へのプレゼントです。

話がそれますが、私も50歳中頃も隣にせまり、「エッ」と振り返れば多くの人々との出会いがありました。人生を左右させた人、忘れて成らない人など、脳裏に焼きついている人というのはどんな方でも持っているはずです。「合気道を始めて40年、米国に渡って28年」と気取っても実際は数え切れないほどの善意の人々に守られて生き延びて来ました。勿論、いい人達ばかりではなかった事もよく我慢した自分のために付け加えます。最もそんな人達でも私にとっては刺激となり、乗り越える勇気や意欲の肥やしになったのですから感謝しなければならないのでしょうが。
もうデンバーだけで1万7000人以上の初心者指導を開祖のご遺影の前でさせていただきました。とは云っても、私の生活など動物園のお猿さんと考えて見て下さい。狭い檻(道場)のほぼ同じ辺りに時間と供に現れ(生活本能、主に空腹を満たすため)ほぼ同じ動きを繰り返し(現状維持の確認)訪れる見物客には繁々と見つめられ、マナーの悪い客に歯を剥き出すと笑われ罵られ、寝ていると「ナーンだ寝てる」と云われる始末。「人種―蒙古、国籍―日本、職業―武道家、餌―雑食」そんな看板の前を1万7000人が「其々の思い」を持って通り過ぎました。でもこんな生活が28年間も維持できたのは、見物客ではない、心の通じる飼育係の力があったからです。飼育係こそ私を支えてくれる指導部、事務部のスタッフ達です。今でこそ日本館は指導、事務合わせて30人余りのボランテアが交代で運営を手伝ってくれていますが、私の渡米時に日本から連れて来た訳でもなく、随分と長い時間がかかって今のようになったのです。

私は数年前にAHAN(Aikido Humanitarian Active Network)と言う社会貢献の部門を日本館の組織の中に置きました。今ご覧になっている私共のホームページ内の記事でその活動がご理解できますが、その部門の設置を考えるに至ったのは他でもない「私の飼育係」の多くの門人そして友人達に「感謝の心をカタチとして」還元したかったからです。
感謝には「有難う」を直接云ったり、カードを送ったりするものから、一杯飲みに行ったり、早いところではお金を払ったりと色々あります。でもそれは門人全員の名前が覚え切れる程度の道場規模の話、日本館も以前は可能でしたが大きくなるにつれて難しくなってきました。そこで考えたのが「私は日本館の会員」と誇りを持って門人が答えれる「社会的信頼を生み出す事」と考えたのです。その実践活動部門がAHANとなりました。
僅か数年なのに現在では米国内に限らず世界各国から、組織や流派を超えてのAHANキャンペーンの要請があり応じ切れないほどの状態で、「遠出は元気なうちに」という事で海外を優先して活動をし、AHANキャンペーンに努めています。

ここに紹介した3人の方はホンノ一部、私の飼育係はまだまだ沢山おりますが今回はイタリア編で紹介しました。最後に私が1990年に発刊し現在も好評の英版「AIKIDO FOR LIFE」に使った感謝の気持ちを表したスケッチを紹介します。私は14年前のこの頃も、そして今日も、「感謝と報恩」こそ日本館の発展の源であると信じ実践しています。







                        平成16年4月25日記
日本館 館長 本間 学


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