館長コラム◆◆  

■地域格差と合気道 ニカラグア女性合気道家の苦悩


ノーマン指導員、本間館長、ニカラグア大学体育局長、スーザン先生 2004年6月

着陸のため滑走路に向かったとき、滑走路脇の幾つもの小山が不気味な口を開け、次々と飛行機に向かって来ては消えていきました。それが内戦時代の古いバンカーであった事に気が付いたのはその直ぐ後でした。
私は迎えのタクシーのドライバーに話しかけました「ビックリしたよ、あのバンカー、国際空港で最初の出迎えだからね。」彼は笑って答えた「俺は全く驚かないよね、大砲のないバンカーなんて。今走っているこの道、両側が死体の山だったよ。あなたが向かうホテルの辺りだって昔はマナグアの中心で教会があり市役所があり、そして広場があり、店があり、人々で賑わっていたよ。もうそんなの跡形も無く、今じゃ海外資本がその上で別のような国を開いているよ。そこだって死体の山だった。ホラ、そこの角のレストランは以前、軍の施設があって40人ぐらいが一度に殺られた。俺も政府軍で戦ったけどもう二度と武器は持ちたくないね。今はこうやって気軽なタクシーの運転手、ボスもいないし、一日走れば子供を養っていけるしーーー。」

運転手は続けました。ニカラグアは1936年からの長い独裁政権に対して、革命が成功したのが1979年、しかしその後、泥沼の内戦が始まり、停戦になったのは1988年3月。戦死者はコントラ(ゲリラ側)がーーー。つい昨日のように話す彼の言葉に、内戦の傷の深さを感じました。

停戦合意の成立する3年前の1985年、小柄な一人の米国人女性が、内戦中の主都マナグアに立ちました。「自己の目と耳と、心で確認したかった」と彼女は昔を語りました。内戦で荒れ果てたマナグアの街に立ち呆然とし、そのショックは米国に戻っても忘れる事が出来ず、何回かの訪問を繰り返したあと、1989年に定住を始めました。スーザン ケニー先生38歳の時でした。
彼女こそ、内戦後の復興から立ち上がろうとしていたニカラグアに、始めて合気道を普及した「ニカラグア合気道の母」です。

彼女が合気道を始めたのは1976年、現在の合気道シンシナチ(米国シンシナチ州)でした。その頃は特定の先生もいなく「同好会」のような団体で、幾人かの日本人師範の教えを受けていそうです。
1979年、彼女はキューバに渡ります。彼女にその理由を聞く事は何となく憚れました。その頃の米国は74年にウオーターゲート事件、75年にベトナム戦争が終結。ヒッピー、反戦、当時多くの若者がそうであったように、彼女もまた、自己を探し出す事に、自己を確認する事に多くの時間を費やした頃です。「スペイン語が習いたかった」と矛先をそらすその裏には、若い頃の苦悩を「過ぎ去った事」として胸に収めているのが私にも良く解かったからです。まして、米国とキューバの関係が緊張し、一時は「第三次世界大戦か」と世界を恐れさせ、その緊張がまだ収まらないその頃に、米国人の彼女がキューバに渡ったのは、彼女なりに社会体制や人生、そして未来に対して大きな疑問があり、真っ向からそれと向かい合った結果だったのでしょう。彼女がニッコリ笑って「若い頃は、自分の思想や人生を確認したくてね。」この言葉に彼女の現在と過去がすべてあるような気がしました。
その後、キューバ、メキシコと中央アメリカの国々でスペイン語を学び、通訳やNGOで働きながら生活したそうです。「私は浪人」と日本語で冗談をいって笑っていました。

定住を決心し、1989年9月7日ニカラグアに到着し、1週間くらい過ぎた頃、UNI、ニカラグア大学構内で柔道着を着て歩いている数人の女性達を見つけました。彼女はその女性達のあとを追って行き、稽古場所を探し出し、柔道の稽古のあいている時間を借り、合気道の稽古仲間を募ってニカラグアで始めての「合気道グループ」が誕生しました。「1989年10月6日は私にとって忘れられない、ニカラグア合気道初めての稽古の日」と声を弾ませました。


スーザン ケニー先生1990年頃

その頃柔道は、国や大学の保護で活発に活動しており立派な道場もありました。ラッキーにも、その柔道チームが長期集中トレーニングのためキューバに移ったため場所が開き、合気道の稽古時間が学生にとって便利な時間帯となり生徒が増えました。
しかしそれも長くは有りませんでした。大学がその施設を他のプログラムに転用する事になり使用出来なくなり、その後大学キャンパス内外のありとあらゆる場所を転々とし、使っていなかったプールの底に藁を敷いて粗末なカバーを掛け、その上で稽古した事もあるそうです。そんなジプシー稽古が9ヶ月ほど続き、やがて生徒も散るように減って1人の生徒しか残らなくなっていました。勿論、米国などからの指導者との連絡も希薄となり、随分孤独な思いをしたけど、「集まっては消え、集まっては消え」の繰り返しでは有ったけど「とにかく続ける事」を目的に頑張ったそうです。

やがてUCA中央アメリカ大学に屋根付きのスペースを見つけそこで「道場と呼べる場所」での稽古が再開され、1998年には日本から最初の合気道指導の青年海外協力隊員が2年間、その後2001年に2人目の隊員が派遣されました。現在では2つの大学と校外の1道場で稽古が行なわれ、60人ほどが常時稽古しているそうです。しかし大学に於ける「合気道」の地位はいまだに理解に乏しく、予算は、校名を高める可能性のある「スポーツ」にまわり、試合などの派手な部分のない合気道は柔道、空手、テッコンドウなどの合間をぬって稽古しているのが実情のようです。
月謝は一人2ドル50セント(約250円)それでも払えない学生も多いとスーザン先生は目を細めてスマイルするのです。「それでも、其々の道場で指導している私の子供達(彼女は門下生をこう呼ぶ)が頑張って、6000コルドバ(日本円にして約3万2500円)をこの4年間に貯めてくれました。自分達も苦しいのに道場の為に頑張っている、とてもいい子供達です」
「最初の頃は、女が武道を、という事で嫌な事もされました。必要以上に抵抗され、私もそれに必死で抵抗した頃がありました。でもヤッパリ男達の力には敵わないしどうする事も出来ませんでした。少し諦め始めた頃に"頑張って大きな男達と対等にやろう"としている自分が見えてきました。それに気がついてからは彼らも大変優しくなりました。つまりは私自身が出来ていない為だったのでしょう。私は"子犬パワー"と名付けて自然な動きを追求しましました。私自身が子犬のように無邪気に無心になる事をです」

彼女は現在、NGO機関でエネルギー開発に関する仕事をしながら、門下生の稽古指導は勿論、若い門下生の相談相手として信頼を集めています。
彼女の門下生、ノーマン君も彼女を母のように慕う一人です。彼は1993年18才の時に彼女から初稽古を受け、その後派遣されてきた協力隊員からも指導を受けました。現在はUCAで職員として働きながら授業を受け、UCAの武道場を確保して指導に当ってます。


稽古を始めた頃のノーマン君(左)と
スーザン先生 1994年頃

稽古後の門下生達と1996年頃

彼は大学の派遣で日本に行った時があるそうです。物価が高かった事に一番ビックリしたそうです。代々木の元選手村に滞在していたようですが、とうとう本部道場には行けなかったそうです。いや行ったけど稽古は出来なかった、それが正確かもしれません。つまりお金が寂しく涙を呑んだといいます。そんな体験をしていながらも、日本を、合気道を愛する気持ちは変わらす、毎日熱心に稽古に励んでいます。
しかし残念な事に、この素晴らしい合気道家には「求道心」だけでは解決できない問題があります。それは昇段です。日本政府機関が派遣した素晴らしい指導者であっても、派遣された指導者の合気道組織の出身が異なれば数々の問題が生じて来るからです。

「私はどうでも良いけど、子供達にはーー」その優しい目は輝いていました。
私の滞在中、出来る限りの時間を彼女から「話を聞く」時間としました。彼女の教養ある人柄から、その会話中は、相手に不満をぶつける様な、不快感を与える様な言葉は実に見事に避けてはいましたが、彼女の長い間の思いが私には充分伝わりました。話を聞くうちに、彼女が門下生達に昇段の機会を与える事の出来ない事に対して、罪悪感のような思いすら持っている事が伝わって来ました。
しかし、この純真な合気道家が直面している問題は決して彼女だけの問題ではなく、開発途上国では良く見られる問題の一つである事を私は彼女に説明しました。
先に紹介したノーマン君など、開発途上国の多くの合気道家が、10年以上も毎日熱心に稽古していながら段位を持っていない、これが米国であったら2段、3段はゴロゴロ存在します。これはやはりおかしい事です。
スーザン先生が始めた頃はまだ上部団体もなく、出身道場の合気道シンシナチがUSAF(合気会合気道の米国認可団体)に加盟した関係から、自分達もUSAFを通した合気会の末端部にいると判断していました。1998年に日本から青年海外協力隊員が合気道の指導でやってきてからは、その指導者が生徒にとって「父」となりました。もしこの隊員がUSAFの筆頭師範に関わる人であったら何事も無かったのですが、全く縁のない道場からの派遣でした。協力隊の規定により2年間を過した隊員は帰国、次にまた新たな派遣隊員が「父」となりました。この派遣隊員もUSAF筆頭師範とも、前任の隊員とも出身道場、師範の異なる人でした。「同じ合気道ではないか」と思われる方は合気道もド素人。同じ合気会でも師範が変われば全く別物です。ましてや海外青年協力隊派遣制度は合気会は勿論、いかなる合気道団体の機関でもない、独自の日本政府関連機関です。
その規定に合えば、流派、団体によって差別される事無く任命される事になっています。国策として行われている事業に差別があってはならないはすです。皮肉にもその「平等」が問題の種となっているわけです。

さて、開発途上国の支援として派遣された「2人の父」には残された其々の子供達がいます。父が去った後に起こるのは内部の主導権争いの不安です。指導者が違えば「舟こぎ運動」ひとつとっても違うわけで、稽古する者が熱心であればある程、自分の指導者に忠実であればある程その兆しは見えてきます。遂には分裂すら起こってしまう事を考えなければなりません。指導者同志が、協力隊員としての組織的連携があっても、合気道関係の連携が無い為、新しい父を迎えた子供達は、2年事に新しい父に添った弟子にならなくては成りません。そのため、特定の団体に昇段試験を受けるだけの籍が存在せず、「置き去りの子」となるわけです。

多くの国で日本の貢献が歓迎され感謝されています。ここで述べたことが何処の国でも起こっていると云うのでも有りません、協力隊員を非難しているのでもありません。しかし「いま少しの配慮」でこういったトラブルを回避することが出来るはずです。自立推進の為、一カ国(一地域)には2年任期3名、合計6年が規定のようです。この隊員たちの組織的バックグランドが一致していて、任期交代しても残された弟子達の稽古歴が継続してその団体に残るようにしてやり、昇段等のチャンスに便宜を図ってやるべきではないか、と提案しているのです。
「そんな問題は無いよ」と恐らく日本側関係者はいう事でしょう。しかし現実に起こっている派遣交代後の現地のトラブルを把握しないでのでは「善意の押し付け」となってしまいます。

ニカラグア合気道の母、スーザン先生は、彼女によって育てあげた素晴らしい弟子達の事ばかり考えて今まで努力してきました。いまその子供達の事を彼女は大きな心で理解しようとしています。「もう私の子供達は其々の道を歩める、立派な大人になったの。其々の団体、流派でやってもいいのよ。でもね、互いに争いだけは私の前ではして欲しくないの。それは私の一番悲しいこと」。 
祖国米国を離れ、開発途上国復興に捧げて25年、いまは人生の表裏、美しい部分も、薄汚れた部分も理解できる彼女の悩みは、皮肉にも「開発途上国支援派遣」にありました。どうしても依存しなければ成らないが為に、「援助を受ける者の犠牲」も負わなければ成らないという事でした。

スーザン先生を囲んだ幹部の門下生達に、涙を出さんばかりに懇願された事があります。それは自分達の存在を明確にしたい、つまりは「置き忘れられている」状態から脱却し、合気道家として自信に満ちた稽古をしたいし、自分達の門下生にも伝えたいという事でした。
合気道界の複雑な事情を知る私にとって、出せる答えはたった一つでした。「どうせ今まで待っていたのだから焦る事も無いでしょう、流派や団体よりも'貴方達に何をしてくれるか'が一番重要なことです。組織末端の合気道家ではなく、合気道を動かす末端の合気道家になればいい。何もしてくれない上部団体には"サヨナラ"を言えばいいのであって何も恐れる事はありません。開発途上国の合気道家が一つになれば簡単な事です。これからは合気道家が指導者を選ぶのです。
世界には、師範同士のライバル意識争い、縄張り争い、権力争いによって、その巻き添えから"置き忘れられた合気道家"が沢山います。師範たちに反省してもらう為には、サヨナラは大きな衝撃となります。門下生のお金で生活しているのがプロです。師範たちも、多くの門下生が欲しいなら"親身になった顧客サービス"と交換しなければならないからです。サヨナラを云うのには組織力も、資金力も要りません。弱者が集まって改善を訴え、何も無いなら、サヨナラを言えば良いだけです。スーザン先生、もうこれだけの貢献を合気道界にしているのです、いつまでも子犬でいる事は有りません。日本の合気道諸団体、特に税的待遇や補助金を受けている団体は、グローバルギャップ問題を無視している事がどんな事に成るか充分知っているはずです。」

女性合気道家スーザン ケニー先生。ニカラグアに合気道の歴史を刻み、「合気道の心」を実践した女性。他国でパイオニアとして成功した外国人女性としては、彼女が始めての合気道家と言えるでしょう。長い間大変だった事でしょう。 
彼女のこれまでの努力が実を結ぶ事を願い、関係団体が、実情に即した対応を「温情をもって」実行してくれる事をお願いしたいのです。

日本館AHAN本部はスーザン ケニー先生を「AHAN活動指導者IISA(Instructors In Support of AHAN)」として認定し、彼女が選択する所属団体に関係なく、道場自立運営の長期的支援を行うことにしました。

       平成16年 日本敗戦の日
デンバーホームレス収容保護施設にて
日本館 館長 本間 学 記

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