館長コラム◆◆  

■「祈りと銃」 ネパール訪問を終えて


ヒンズー寺院にて

ネパールのカトマンズ.トリブバァン国際空港に20分くらいでしたでしょうか、右窓にヒマラヤ山脈が見え出した頃でした。私の前座席にいた30代の男が急に立ち上がり手を大きく広げ騒ぎ出しました。しかし周りの人は驚くどころか、その男の指差す窓の外を微笑みながら見ているのです。男は泣き笑いのクシャクシャの顔を隠す事も無く、それは着陸のシートベルトを注意された後も続きました。意味のわからない言葉のなかに幾度も「ヒマラヤ、ヒマラヤ」と聞き取れました。

おそらく何年ぶりかの帰国なのでしょう。この男の感激の中に彼のそれまでの生活一切が有るような気がして、私も何となく胸が熱くなりました。世界の貧困国の一つに数えられるネパールは海外への出稼ぎ国でもあります。懐を暖めて帰ったのか、諦めて帰ったのかーー。そんな事に関わり無く、この男に「ご苦労様」と心の中で拍手を送りました。

ネパールの首都カトマンズ。人間の数より神仏の数が多いと評される大都会。そこには、神や仏の裾野を飾るように生活する人々の姿がありました。ダイナミックなこの町の人々の生き様を紹介するには、とても僅かのページに打ち込めるものではなく、中途半端な紹介はこの国の文化を軽率に扱う事であり、結局は自己の肉体をここに運びこむ以外、この国を知る事は困難であると、力車に揺られた私は考えました。

賑やかなカトマンズの町

小型車がやっとすれ違えるような小路に、車、荷車、一輪車、3人乗りのバイク、大きな荷物や野菜を積んだ自転車、力車、3人掛けのソファーを背負って運ぶ人、天秤棒が弓のように曲がった野菜売り、そして人、ひと、ヒト。そうでした、牛、犬、ヤギも。小路の両側には粗末な露天が陣取り、右も左もないゴッチャ混ぜの道を、音の出るものはすべて鳴らし、暗黙のうちに譲り合いながら、チャンとそれで統率されているのが面白く、「流れが悪いな」などと感じたときは、かならず警察官が前方に威張っているのがまた面白く、雑踏の中を必死にペダルを踏む力車の親父に合わせて、座席の私までが力んでしまいました。
ここ数年海外に出かける機会が多いのですが、すべてが合気道指導、もしくはAHAN活動の為であり、現地スタッフにお世話になり滞在します。スタッフは旅行会社の人でもなく、あくまでも地元の人。観光旅行では出来ない経験が旅をさらに楽しくしてくれます。

まずはネパールの武道界を知ろうと、ダスラススタジアムに向かいました。多くの武道はここで早朝から稽古をしているとの事でした。
前日、力車の親父に5時30分にホテルに来るように頼んでおいたら、遅れると悪いという事で、ホテルの警備員の小屋に寝ていたとの事。町は暗闇というのに社寺の蝋燭が灯り、僅かな光で人々は一日の稼ぎの準備に追われていました。
暗闇の社寺の間をすり抜けて30分。陸軍トレーニングセンターと並ぶこのスタジアムはカトマンズ最大のサッカー場で客席の下が大小の体育館になっていました。ゲートを入り驚いてしまいました。なんと正面だけでも10以上の日本の空手、中国武道の看板が並んでおり、それぞれの看板の下のシャッターが開けられ、中からは元気な気合が飛んで来るのです。そればかりでは有りません。スタジアムの二階でも、横の広場でも、別棟の体育館でも。


空手の看板が並ぶ

外の広場で


空手各グループの稽古風景

私はこれほどの武道が「軒を連ねて」稽古をしているのを見た事がありません。しかも朝6時前の事です。一クラス30人から多いところでは100人余り。勿論それぞれ全く異なった流派です。こんな朝早く道場前を歩く中年の中国人か日本人といえば、彼らも察しがつくようで、どの道場でも礼儀正しく挨拶をし、用件を尋ね、なにか助けが必要かと親切に応対してくれました。ある道場では奥から私の本を持ってきてサインを求められたのには驚きました。自己紹介もしていないのにです。
しかし不思議であったのは柔道以外、すべてが空手,拳法の類であった事です。この施設は、政府機関であるナショナルスポーツカウンセルの傘下にあり、これらの武道はここの管轄にあります。後日、カウンセルのスタッフとの話では、「空手が一番費用がかからないし稽古場所もどこでも良い、柔道などはどうしてもマットが必要となり稽古場所も限られてくる。空手が多いのは、以前野放し状態で町のあちこちで稽古していたものを登録制にし、その代わりスタジアムの使用を認めたためです。合気道で登録されている団体はありません」との事でした。
一時間ほど過ごし、朝の混雑の中を3倍の時間を掛けてホテルに戻りました。何しろ緩い上り坂、親父がいくら尻をサドルから上げて蹴ったところでなかなか進まない。後ろでは世界中のクラクションが鳴ったようにやられるし、ついには飛び降りて後ろを押してのボランティア。4日も一緒にいれば其処は阿吽の呼吸が育つのです。それどころか、どうしても私自身が蹴ってみたくなり、親爺を乗せてひとまわり。とんでもない、電柱一本も越せないないほど難しいのです。道場に立って門下生に気合を入れているほうが、はるかに楽なのでした。

ホテルに帰って驚きました。スタジアムで稽古していた数人が私を待っていたのです。そして「滞在中に稽古を受けたい、他にまだ仲間が居るので」と懇願されました。もともと私のネパール訪問は、有志だけでささやかに稽古している、ネパールの合気道家達との交流と支援が目的であったので、時間と場所を知らせ、そこに来るように返事をしましたら大変喜んでくれました。

稽古場所は軍関係の施設で40人ほどが集まっていました。多くは軍、警察関係の方々で、そこに空手の若い方たちもやって来ていました。合気道と縁のあった方は16人。とくに、亡くなったデペンドラ王子の護衛官であったという軍人は、王子の稽古の相手をしたと懐かしそうに語っていました。デペンドラ王子はロンドン留学中に合気会の黒帯にまでなった方であることは私も知っていました。
さて稽古です。合気道の動きらしい事が出来る人はほんの僅か。合気道運動をやったところで、転換法をやったところで、この目つきの鋭い軍人たちが求めている事を満足させる事は出来ません。彼らは今役に立つ技が欲しいのです。
私は「さてどうしたら良いもんか」と戸惑いながらも、勝手に決めた正面に向かって正座黙想、礼をした後で、静かに振り返り並んだ方々と礼を交わしました。結局はそれがネパールで私が始めて指導した技となりました。つまり「礼を交わす」という事です。この日本武道の真髄とも言える「礼」の心が宗教心が深く、ましてや軍人として気骨のあるネパール人にスムーズに受け入れられたのです。この後は実に和気藹々と、日本館初心者クラスに沿った稽古をする事が出来ました。

 滞在6日目の朝。テレビをつけると、どのチャンネルも同じような画面が流され、同じアナウンスが流れていました。お茶を飲みにロビーに行きますと、テレビの前にはホテルスタッフが集まっていました。
午前10時、画面にギャネンドラ国王の姿が現われ話し始めました。訊ねるまでもなく英語の出来るスタッフが通訳してくれ事態は直ぐに分りました。国王による一方的な内閣解散、いわば国王によるクーデターでした。そのあとはテレビ、ラジオ、インターネット、電話の遮断が続きました。町のあちこちには、撃鉄に指を添えた重装備の軍隊が固め、さらには号外を囲んで語り合う人々の間を、覆面姿の警備兵が銃を構え、列を組んで左右を見渡しながらパトロールをしていました。テレビ放送から僅か30分ほどなのに号外まで出ているのですから、これは明らかに事前に計画されたものだったのでしょう。事情の知らない人は、反政府共産主義の毛沢東主義派が攻撃してくる、と話している人もいました。


警備中の兵士

馬に乗った兵士達が慌しく移動する


仏塔を廻って参拝する人々

いつもと変わらぬ風景

神仏の世界を満喫していた私は、極端な現実に引き戻されましたが、恐怖心や不安は全くありませんでした。それは多くの人々、つまり庶民と言える人々がそんな事とは関係なく(あったとしても)いつも通りにマニ車を廻し、鉦を鳴らし、蝋燭の炎と線香の煙は絶えず、祈りの世界にあったからです。

その日の夕方、稽古をした将校レベルの軍人がホテルにやって来て「急いで国から出たほうが良い、今は安全であるけど今後デモなどが予想されるし、飛行機の発着も難しくなるかもしれないので」と告げ、ナマステと合掌をして挨拶をした後、硬い大きな両手で私の手を握ってくれました。翌日、厳戒態勢下の飛行場から辛うじて出国することが出来ました。出国の際も検査は厳しく、特に映像物が厳しくチェックされ、私の場合はデジタルカメラの内容を一部調べられ、其の中に稽古をした軍施設や、町の警備兵を映していたため少々時間がかかり、結局は目の前で消す事を命じられ、従いました。幸運にも他のチップは無事通りましたが、新品の使い捨てカメラ一個と交換となりました。安いものです。

再度の稽古が約束されていましたが、全く連絡の手段がなく、多くの方々に挨拶もなく去ってきました。残念でしたが政局が安定したら再度訪問したいと願っています。また、現地グループには稽古が出来るようAHANプロジェクトとして今後支援したいと思っております。

ネパールにおける人道等の支援に関して少し述べてみましょう。
前もって明確にしたいのは、この国は支援を必要としている国であるけど、決して「貧しい国ではない」と言う事です。この国には素晴らしい歴史と文化、自然があり、それが信仰深い人々によって守られている「裕福な国」なのです。
この素晴らしい国の歴史、文化、そして人々を支援しようと国連機関を始め世界各国からのNGO などが活動しています。なんとその数1万5000団体から2万団体が存在し、其の支援金総額は国家予算を上回ると聞きました。しかしその多くが、資金集めの幽霊団体である事が指摘されている事も事実のようです。その資金が必要とする場所、人々に廻っていないのは当然の事です。
「観光収入が国の収入の多くを占めるネパールにおいて、この体質を作り出した大きな原因は、皮肉にも観光客です」と、あるNGOの代表は話してくれました。つまり、訪れた観光客がネパールの現状を自己の生活水準で判断し「哀れみ」をもって金品をくれる事にありました。日本人にとって1ドルは僅か100円でも、もらった方では大きなお金なのです。月1万円でも、そんなスポンサーが10人いれば10万円。5−6ヵ月分の給料です。辞められないビジネスと考える心無い人もいるわけです。
問題はこういった事によって善良な現地NGOばかりか、ネパール人までが不審に見られてしまう事です。また帰国後、基金を呼びかけて設立し、現地に送金したけど全てを騙し取られ、善意で基金を設立した人の信用や人間関係すら失う悲劇が幾らでも起こっていると海外青年協力隊員が話してくれました。
私の滞在中も親しく英語で公共寄付を求める若者が多くいました。無視していますと韓国語、日本語と繰り出してきます。更に無視していますと驚くべき暴言を吐いてその場を離れます。
主都カトマンズだけでも世界遺産認定の地域、建造物が幾つもあります。その多くは痛みが激しく、シートで雨露をしのいる指定建造物もあります。ネパールを訪れた観光客は勿論、世界の支援は大いに必要です。しかし確実な国際機関を通して支援をすべきであり、其の支援が直接効果をもたらす管理システムの存在する団体である事も大切です。


文化財補修が進んでいるがーー。

町の拡大に環境整備が追いつかない

世界遺産の施設に入る費用、15ドルを徴収(外国人のみ)してもチケットも発行しない状態では、雨漏りシートを取り外す事は難しい事でしょう。ネパールは観光で生きる国。その主体となる観光資源が健全に管理される事が最も大切と私は思いました。
尚、こういった事例はネパールに限らず、私の知るいくつかの国でも問題となっており、6年余りの支援経験を持つモンゴルにおいても、日本人相手の巧みな手口が横行しています。安易な金品の寄付は、現地の人々に悪習を生み出す結果となります。支援後は必ず収支や具体的な実証を確認すべきでしょう。

 私のネパール訪問にあたり、デンバー在住のネパール人からネパールの家族にと預かったものには社寺への「御布施」が必ずありました。遠い海外に生活していても、ネパールの人々はヒマラヤに包まれ、神仏に祈り、感謝し、庇護を願い、守られて生きている素晴らし人たちです。現場に効果のある国際支援は今後とも必要でしょう。AHAN日本館本部は、ネパールの青少年育成と文化相互理解のために合気道を通して支援して行きたいと思います。


ネパールで路地から路地まで案内してくれた皆さん、ありがとうございました。ネパールから少しでも早く銃が消え去る事を祈っております。

機上の私は、あの騒いでいた男の事を思い出していました。今頃家族と楽しい時間を過ごしている事だろうと。幸福とは、裕福とは、確かに金は必要かもしれない、しかし本当の幸福とは金ではなく、しかし金がなかったらーーーー。羊を数えるように、答えのない自己討論をしつつ、眠りに入ってしまいました。


       平成17年2月7日
日本館 館長 本間 学 記

著者記:
ネパールの現状況に配慮し、個人名はあえて記入しませんでした。軍施設の写真は抹消されたため、公開できません。ネパール合気道に関しての質問は日本館にお寄せ下さい。

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