館長コラム◆◆  

日本館オフィスより

「マイケルさんからの手紙」メールの回答に関して 
 平成17年6月18日
 

日本館や本間館長宛には多くのメールが飛び込みます。多くは合気道に関する質問で、それは「稽古着何処で買う」から「言霊って?」など、単純なものから複雑な事柄まで様々です。「受身の取り方、木剣の持ち方」などをしつこく質問する人も居ます。難しいことを訊ねる人の殆どは「知らないのではなく、知っている事を主張したい人」の方が多い様です。いわば「合気道オタク」の話し相手です。また自己の合気道感を淡々と述べたり、開祖の伝記を真に受けて「私も水を被ったら金の光が天から降りてきた」と訴える者、「開祖が現われ、私に教示を与えた、私は開祖の生まれ変わり」という手紙も数通あります。

今では最初の数行を読んで「過去の同様の手紙」と比べることができ、時間の無駄がだいぶ省けるようになりました。こういった手紙は処分されるか「本間館長へのおかしな手紙」としてファイルされます。
こういった「合気道オタク」や合気道宇宙人を上手に踊らしてオンラインでも始めれば充分な事業が出来るほどです。
そんななかで、AHAN活動に関すること、差出人やバックグランドのはっきりした手紙は館長デスクにまわされ、回答がなされます。
本間館長は誠意ある手紙には誠意をもって回答しています。今回特別、差出人であるマイケル.デフロンゾ氏の承諾をえて、彼の質問に対して回答した本間館長の手紙を公開します。
尚、マイケルさんの手紙にある金井先生とは、米国合気道パイオニアのお一人で、2004年3月亡くなられた合気会師範  金井満也八段でマサチューセッツ州ボストンを中心に各地で活躍されました。また千葉先生とは現在サンデイゴ合気会師範の千葉和雄八段です。


400通を超える「先生へのおかしな手紙」コレクション
将来「武道変人史」を発行するとの悪い冗談も

日本館オフィス 依田

マイケルさんからの手紙

 このコラムは差出人であるマイケル、デフロンゾさんの承諾を得て公開するものです。最初はマイケルさんの手紙、私の回答は後に続きます。

本間先生へ
 私は金井先生に5年間教えを受けました。また奥様のシャーロン、お子様のメイシャそしてユキとも大変親しい関係でしす。先生が亡くなって1年を過ぎましたが、私達はいまだに先生を失ったショックは大きく、方向を見出せないでおります。
 金井先生の合気道はパワーの有る素晴らしいものでした。しかし彼の真の価値は技のみではありません。多くの彼のシニア門下生は技は習ったけど、彼の最も素晴らしい、忠実、正直、謙遜、親愛の心を受け取る事はしなかったようです。先生は自己を省みる事より他人の幸福を考え、常に控え目で自己主張はしませんでした。先生には幾度もビデオ制作や出版のチャンスがあったにもかかわらず制作しようとしませんでした。先生はそういったものに囚われない真の合気道家でした。
 今、残された我々の道場運営の問題は、シニア門下生が自分自身の事を考え、残念ながら金井ファミリーの事は忘れていることです。これは私(達)にとって大変に苦痛なことです。千葉先生が色々と金井ファミリーに心を使ってくれて入れることには深く感謝しています。

 私は本間先生のホームページのコラムのファンの一人です。私達が置かれている今の状態に対して何らかのアドバイスありませんでしょうか。――中略―――。

心が落ち着いたら先生の道場を3〜4日訪問したいと考えています。ご都合をお知らせ下さい。

マイケルより



マイケルさんへ
 
 貴方の手紙を読ませていただきました。確かに私の印象も貴方の思われているように、簡単に云えば「地味な師範」であったと思います。日本刀を愛していた事、豪快に相手を投げ、その後で長い前髪をかき上げる金井師範独特の癖、私の知っている金井師範はこの程度なのです。
 貴方の年齢も、金井師範のご家族とのお付き合いの程度も分からないままに貴方の質問にお答えするのは、残されたご家族を蔭ながら支援くださっている方々に申し訳ありませんので、金井師範に限らず、日本から「派遣」というサウンズの良い代名詞を付けられ、海外合気道パイオニアとして渡った指導者たち全般の事を話したいと思います。またこの手紙は貴方だけへの返事ではなく、多くの合気道家にも考えて欲しい事だからです。

 パイオニア師範の訃報に接するたびに聞かれる、残された弟子達の苦悩、分裂騒ぎ。昨日までの稽古仲間が今日は罵り合う悲しさ。しかし、貴方がいま直面している事は「事実」であり、誰をも責める事はできないのです。それは当事者の価値判断であって、その価値を決めるインフォーメーションがどれほどその人物の頭脳に蓄積されているかの結果が判断となって出てきます。

 多くの海外派遣パイオニアが、遠く日本から離れた世界各地でその使命を終えているなか、私に出来る事はパイオニア師範たちの生き様の証言を多くの合気道家に伝え、「価値選択の幅」を広くする事くらいしか出来ません。そう思ってこれからを読んで下さい。

 1960年代、世界に飛び立った多くの若き合気道指導者たち。二十代中頃の血気盛んな方々でした。当時日本は不景気、大学を出ても職が見つからないという状況と、海外、特にアメリカ、ヨーロッパなどでは武道ブームが始まり、70年に入ってブルースリーが武道ブームを決定つけました。其の需要に応じるように合気道青年指導者は世界に飛んだのです。

 しかし、「派遣」とは名前だけ、急激な国内発展にすら体制が追いつかなかった状況下で、海外から云われる条件のままに指導員を「送り出し」ました。当時は招聘状なしでは米国などの入国査証は貰えず、海外からの声が掛るだけでも「天の声」でした。

 こんな状態ですから、海外に渡り招聘先の条件通りの生活を送った人はおりませんでした。しかし招聘先の条件に苦情を言ったところで、それは米国での法的滞在査証を失うだけの事でした。耐えて耐えて今日を築き上げたパイオニア師範。それこそ命を掛けて今日の海外合気道を築き上げた功績は、いかなる派閥、流派を超越して、高く評価すべきと思います。

 「生徒が入らないと金がない。先ずは道場の家賃を支払い、残ったわずかな金で食量を買う。6月余りラーメンだけを食べた事もあった。体が黄色くなるかと心配した」と証言する元派遣師範。「金がないので安い米を買って塩辛をぶっかけて毎日食っていたら塩分が感じなくなったーー」と証言し腎臓病で亡くなった派遣師範。「こんなものを吸ってたら長くないね。しかしビンボウ人生にとって此れとビールが唯一の楽しみ。金のある師範は上部の受けも良くてね。俺には送る金なんか無い(1976年デンバーにて録音)」といってチェーンスモーカーを続け、肺がんで亡くなった派遣師範。「日本から来たばかりの先生は言葉も出来なく、お金も無く、惨めな生活で、余りかわいそうだからと私の両親は食事とベッドルームのお世話を5年しました」と証言したヨーロッパに派遣された派遣師範の元秘書。「夜、小売店の裏に行くと、捨てるのは勿体無いので、店の人が置いた少しだけ古くなった野菜なんかが袋に入れて置いてあるわけ、それを持ってきてね、料理してくれるわけーー」笑いながら語ったある派遣師範の以前のガールフレンド。こういった話には尽きません。

 こういった証言もあります。日本から訪れる先輩高段師範の為に、借金をしてキャデラックを借り、ホテル代の工面が付かず、言いつくろって自分のアパートに泊め、挙句の果てには「君も大きな外車に乗り、大きなアパートに住んでいるじゃないか」となり、そんな苦労も逆効果。「あれだけ派手な生活ができるのは、きっと多くの門下生が存在し、日本の上部団体への上納金をごまかしている、という信じがたい誤解を受けた。その時の空しさは言葉に出せなかった」とある派遣師範は回想しました。当時の日本は外車に乗れるのは大変な事、そして海外からは「ウサギ小屋」と言われた小さなアパートが生活の基準でした。アメリカでは自家用車(もちろん外車)、大きな間取りのアパート、大きなソファー、大きな冷蔵庫も当たり前の事である事を知らない「島国先輩高段師範」に、多くのパイオニア派遣師範は翻弄され、日本の上部団体との間に誠に詰らない、かつ深刻な誤解が生れ、先輩高段師範に別れを告げた派遣師範もいます。

 パイオニア派遣師範に対する理解度はこの程度であり、海外開拓定住の出来なかった派遣師範には「努力が足りないから」の一言。加えて日本の上部団体の内輪揉めによる組織分裂。
同じ団体のタコ糸にしがみ付き通した者、他に乗り移った者、糸が切れ何処かに飛んでしまった者など、前線で命を張っていたパイオニア派遣師範たちにその「選択の重さ」がのしかかりました。残った者も、去った者も「明日に生きる事、家族を養う事」を前提に行動をしました。当時のパイオニア派遣師範は日本の上部団体からは金銭的サポートは何も無く、招聘先から抜ければ自分で収入源を探す以外「飢え死に」しかなかったのです。
 ある日本の上部団体から分かれたパイオニア派遣師範は「頭が割れたら我々はどうしようも無いだろう。残るか、付いていくか、それしかない。残った者も、付いて行った者も責められる理由は一つも無い」。頭、つまり上層部高段師範の問題で多くの純真な若き指導者がその皺寄せを蒙ったのです。

 当時、前線で泥水を啜るような生活を送りながら、今日の海外合気道を築き上げたパイオニア派遣師範たちの状況を把握する事無く「崖っぷちに追い込んで」いた事を日本の高段師範たちは理解はしてはいなかったことでしょう。その高段師範たちも現在では数えるほどになりました。
 「アイツらは日本にいたって職も無かった。それを我々が助けたようなもの」と豪語する現役高段師範もいます。しかし、合気道が世界各国に普及し、これだけの組織を維持できる団体に発展したのは、決して日本国内のホーム道場で月給が保証され、指導場所も約束されているサラリーマン師範たちの力ではなかったはずです。

 合気道を稽古されて5年余りの貴方にとんでもない事を話してしまった様です。しかし、貴方に伝えたかった事は、これ程厳しく、複雑な人生を無事に上手に切り抜け、信じるものにすがりつき、合気道で一生を終えても、死んでしまえば「冥福を祈ります」の一言なのです。そして現実はそれ以上の何物も無く、ただ何も無かった様に新しい現実が動き出すだけなのです。

 金井師範が亡くなって一ヶ月ほどして、金井師範関係の道場門下生からボストンでの講習会を私に依頼してきました。私はお礼の言葉を述べた後こう付け加えてお断りしました。「日本人の一般常識からして一年間は喪に服すべきであって、困っているのは充分理解できるけど、暫くは道場をしっかり守って行ってください」と。しかしこの道場は支えきれず、ある在米日本人指導者に吸収されました。   
 合気会、気の研究会から転身、AAAを立ち上げ波乱万丈の人生を合気道に奉げた故豊田文男師範、合気会派遣師範であった故藤平明師範の傘下道場にも、この指導者は両師範の死後わずか1−2月で接触し自己の団体に吸収しています。ハイエナのような人間と思っても、それが其の人間の生き方であり、物事に関する価値観が異なる者にとっては「組織拡大の絶好のチャンス」と判断してもおかしくは有りません。
 現在も多くの日本人師範が活躍しています。当然「事業展開」上の激しい争いは続く事でしょう。それが現実です。しかし人生を終え眠りについた者には、一切の派閥や流派を超え、「合気道志士」として敬意ある行動を取るのが「武人」のあるべき姿でしょう。

 今、貴方の周りで起こっている事柄は貴方にとって苦痛な事でしょう。しかし事実から逃れず、しっかりと真正面からみつめ、人生の空しさ、醜さを認識して下さい。それが人生を知る事の出来る最大の近道と私は考えています。
貴方が日本館を訪問し稽古する事は何の問題も有りません。貴方の金井師範への思い、家族への思いは立派なことです。どうぞ今後とも金井師範の偉大な功績を残った皆様に伝えて下さい。

       平成17年6月2日
日本館 館長 本間 学 記

筆者記
 この手紙の内容は、私の資料集「パイオニア達の証言」を基にしています。

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