館長コラム◆◆  

大地を歩もう

日本館年末恒例行事を終え本日は2006年の稽古初めの日です。皆様、おめでとうございます。
 早いですね一年は。365日というと長いけど、一年と区切るとなんと早い事でしょうか。今日は何か話さないと事務方に渋い顔をされますので、いつも稽古で話している事ですが改めてお話したいと思います。
学校に校風が、家庭に家風が有る様に、「日本館の館風」というべきものに付いて確認したいと思います。その確認の上で我々の今年の歩みを位置付けたいと思います。

 ある日本の武道雑誌で、アメリカ風に言えばカリスマ的空手家がこんな事を書いていました。誰だか忘れましたがズイブン前に教育評論家が同じ様な事を書いていましたからご存知の方はおられるでしょうし、新しい事でもありませんが。
 「子供が遊んでいたら、3輪車に乗っている子供がいて親にねだって買ってもらいました。夢中になって遊んでいると目の前を自転車が通り過ぎました。どうしても乗りたくなり、何とか手に入れました。速いし遠くまでいけるし何となく世の中が広く思えました。颯爽と乗りまわっていると一輪車を器用に乗り回している人がいました。ヨシ、俺だって。苦労したすえ一輪車を乗り回せるようになりました。人々は珍しげに眺め、手を打ってくれる人すらいました」と云うものです。 
 こんな話を「人間は物事に対する興味とチャレンジの精神を持たなくてはならない」という話に持っていくわけです。なるほど興味やチャレンジの心は大切です。私もその様に頑張ってきたのですが、どうもそうでは無い様なのです。
 成功美徳、チャンピオン主義の世の中、何とか人生を勝ち得たいとする者に武道家がこういった言葉で自信を与えてやる事はすばらしい事の様に思えるけど、それは果たしてどんなものかと考えるのです。特にここ数年、其々事情の異なる問題を抱えた開発途上国、宗教の異なる国々を自らの足でまわってみて「価値」とはナンなのか「豊かさ、幸福」とはナンなのかを考えるようになりました。

 一輪車に乗れるまでになったものの、その後どうするか行きずまってしまい前後に動きながらバランスをとるだけの人生を送っている人を見かけます。それどころか、もうとっくに疲れきって行き場を失い、路上にうずくまっている人すらいます。
 日本館のメンバーである私達は「路上生活者食事サービス」を通して15年間こういった方たちと身近に接して、学んだ事は多くあるはずです。一輪車に乗る事のみに価値観を持ち、やがて力尽きてしまった人達が大半であると私は感じています。こういった方たちから多くの事を私達は学んだはずです。食事と寝場所を求め、チャペルの椅子に溶け込みそうに腰掛けている方々が必要としているのは食事と休息であり、一輪車哲学など実践の伴なわない者の空言と一蹴される事でしょう。

 日本館の修行理念ではこのような言葉をもって指導する指導者を強く否定してます。日本館の指導理念では先の指導の言葉は終わりでは無く、次の言葉が続きまったく異なった意味を持ちます。
 「得意になって一輪車に乗っていると、不思議な人物が通り過ぎていきました。その人はなんと車輪のない乗り物に乗っていました。驚いたその人はどうしてもその乗り物が欲しくなりました。そして数ヶ月後、三輪車や自転車、一輪車の間をトコトコ歩くその人がいました。この人は自己の足、つまり自分自身の本来の乗り物(自己)を手に入れたのです」日本館の修行理念は「しっかりと地面に立ち、ユックリでもいいから自己の足で歩む事」にあるのです。

 私達は確かに興味を持ち続けチャレンジする事は大切であっても、大地にしっかり立ってこそ存在するのであり、それは座禅をする事によって悟りを開く僧の様に、岩を砕きゴロ石を造る事にその一生を捧げる人のように、そこにあって無限の自由を持てる人間創りこそ大切であると私は考えます。牧師はいつも同じ聖書を読み、僧侶は同じ読経を、神主は同じ祝詞を修めています。しかも何百年も前からです。
 見渡せば一輪車まで乗りこなしたけれどその後が無く、ついには確かに一輪車から降りたけれど足元が地面から浮き上がりフワリフワリと浮き上がって歩き回る人を多く見かけます。もしそうだとすれば、それは人間では有りません。人間が宙を歩いたら「お化け」です。指導者によっては、行き場の無くなった一輪車乗りに対して「これ以上は神秘精神性の世界」と言い分けて、無垢な門下生の足元をさらっています。キャピタリズムに価値観を持つ指導者に扇動され次から次に興味を乗り換え、チャレンジと言う気持ちが高ぶる言葉に酔いしれてしまってはいけません。
 私達が道場で靴や草履をそろえるのは、「脚下照顧」足元を見なさいの禅語にあります。「歩々是道場」も一歩一歩が自己修行の場という教えです。一輪車に上り詰める事への教えとは程遠いのです。

 ある合気道指導者の話にも同じ様なのがあります。「氷山の一角」です。荒海に突き出ている部分はほんの一部分であってその何十倍の部分が海中にあるというものです。これもまた珍しい言葉でもないのですが、それなりの人が言えば「成るほど」となるわけです。その埋もれた部分を開発する事を「売り」として多くの信者を有しています。私はこの事を30年も前から本当に単純な気持ちで否定してきました。なぜ?、氷山はそれでバランスを取って浮いているのであってその自然の成合を崩す事はできないのです。そのままの自然の状態で「ドッシリ」とかまえる。海上に突き出た己を充分に活かしきるためには海中の「自己」が無くてはひっくり返ってしまうと思うのです。もう私達はこういった指導に価値観を持ち翻弄される事に目が覚める時期なのではないでしょうか。

 こういった指導法は一輪車先生も氷山先生も同じ様な「不思議なデモ」をします。しかし、こういったデモは決して貴方の人生を変えるほどの物ではない事に気が付いたときこそ本当の自分に出会えると私は考えています。

 もう10年以上も前に九条英淳師が日本館で法話をされたとき、「猿の子と虎の子の違い」という法話をされました。敵が襲ってきた時、小猿は必死に母ざるの胸にすがり付き逃げ回ります。トラの子供はただダラリと母トラに任せ銜えられて移動します。私はこのお話から感じるものがあった事を記憶しています。
小猿の逃げ様は、決して自分では命を張るような修行をしていない「マスコミ武道家」に扇動された修行者の姿であって本物ではありません。九条師からはこんなエピソードもお聞きしました。
 ある時お寺の調理場で、合気道の指導者であるという人が合気道のレクチャーを始めたそうです。特に気を中心としたそのレクチャーはまさに坊主に説教。「忙しいのにもうアレコレ云うもんで、私は云ったんです。私は体が弱いもんでアンタさんの様に強くもないし、気なんぞと言う別世界の事は興味がありません。武術の話でしたら今私の直ぐ後ろのヤカンが煮立っています。それで充分です。」
別世界に行ってしまったものは扱いずらい、そういって笑われていました。
私はこういった言葉から多くを学ぶことがあります。

 最後になりましたが、岩間で翁先生の頃から稽古をされているある女性が送ってくれたカードを紹介しましょう。
 年末、新年の挨拶の後「今日、朝稽古に行ってきました。道場の前の竹林で稽古をしています。零下の朝、仁弘先生(伝統岩間流、斉藤仁弘塾長)が数箇所に焚き火を焚いてくれるのだけど、それでも大変です。」

 私は、彼女が大変ですと言いつつも開祖の頃から稽古を続けている事に武道家の姿を見るのです。女性指導者になって日本中や世界を駆け回るわけではない一合気道家の言葉にです。
 蒸しあがるほど暑い日も、眉が息で凍る寒い日もただ黙々と木剣を素振る。決してそれは一輪車に自己を追い詰める事ではない、大地に立った修行者の姿でしょう。
 日本館生は、大地にしっかり立ち、日本館開設以来の道場訓としている「行動と汗」の実践を今年も励まれる事を希望しております。
 どうぞ今年も、怪我の無い、楽しく充実した稽古に励んで下さい。私自身も昨年以上に自己の修行に打ち込みたいと思っております。皆様の益々の支援をお願いいたします。有難うございました。

日本館総本部 館長 本間 学
筆記録 依田 宗
平成18年1月4日 記
 

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