館長コラム◆◆  

追われる貧困者 立ち上がる若者たち
   バングラデッシュで感じた事
 

いつもの通りAHAN日本館バングラデッシュ世話人のマジ君と床屋のラターンさんが迎えに来る。ラターさんはマジ君専属の床屋。私にとって床屋は地域の情報やコネクションに通じているので一緒にいてくれるのは心強い。
 マジ君のご両親が営むバングラデッシュ中央駅と国際バスターミナルの前にある「ホテル.シーランド」に入り,下の大衆食堂で夕食をとる。大盛りのライスに小さな湯のみ一杯程度のマトンカレーとキューリのスライス5枚、細い青唐からし一本、日本の焼き鳥サイズのマトンの串焼き二本、約二ドルの夕食、高級ホテルにでも行かなければアルコールは無い。蚊取り線香、さらに虫除けスプレーで武装して寝る。


地方の貧困は首都ダカに押し寄せる、駅前を定宿とする浮浪児たち


限られた衣類をどの様に着こなすかが朝の大切な仕事。しかし旅先のお洒落などというものではない。長旅ではバックパッカーのような服装がほとんど(安全上目立たないように)。稽古着は最低二着それに袴、まずこれだけは必需品であるが意外とかさばるし重い。他の衣類は必要最小限に絞る事になってしまう。現地購入したくともサイズがないのが困る。外に一歩出るとたちまち汗が流れ出しパリッとしたシャツなど目的地に着く前に汗でダラリ。安物の白い半袖コットン下着を着て予備二枚をバックにいれ、途中で着替えてシャツをハンカチ代わりにする。パンツも汚れの目立たない茶系のパンツ、写真を撮るとどこでも同じなので変化に乏しい。気軽であるが場合によっては「それなりの格好」をしなければならず難しい。見かけではなく中身と言うけど、中身より見かけの方が一般的であるのはどこの国も同じである。


床屋のラターンさん一家 


翌日、今回の訪問目的の一つであった、バングラデッシュの温暖化被害の現場にむかった。目的地は首都ダカから北西のバングラデッシュでは三番目の都市ラジャシャヒ市。そこに流れるバッダマ川に大きな異変が起きているという。ダカの飛行場に近いカントンメント駅から「シルクシティーエクスプレス」の夜行に乗り6時間、列車名の通りそこはシルクの町という。四人個室の一等寝台車は一人15ドル前後、清潔でサービスも良い。電車は正確に深夜1時45分定刻に案内も無く静かに動き出す。通路の両側にはライフルを持った警備官が終点駅まで警備をしていた。


ポーターの少年スモン君この駅で3年働いている。
教育は4年生まで、夢はお金をためてフルーツスタンドでも開く事。 すでに深夜を過ぎている。



シルクエキスプレス号

清潔な客室

朝4時30分ころには明るくなってきて5時には外では農作業をする人の姿。水田の多いのどかな景色、まもなくラジャシャヒ駅に到着、立派な駅で朝早くから混雑、外にはリキシャが並び一般客に混じって国境警備兵が移動のためか随分多く目に付く。今はライチのシーズンらしく枝ごともぎ取った50個一束のライチが大きなかごにいれられて駅前の道端で売られている。


駅前は早朝なのに大混雑

駅前にはライチ売りが


朝市の賑わい、バングラデッシュは男が売り手



シルク刺繍の女性たち

手染めのシルク地を作る


高級品は男の仕事

これがマジ君ラターンさんの朝飯

まだ開いていない商店街をリキシャに乗って大衆食堂街に腹ごしらに行く、無難なところでマトンカレーにライス、チャイを4杯くらい飲んで3人で3ドルあまり、床屋のラターさんの交渉で荷物も預かってくれるという。
 まだ朝7時15分、目的のバッダマ川で川舟を雇う。船頭はマジ.レベルさん、ここで生まれ育ち軍隊に5年いて今は家業の船頭をしている、マジとは船頭という意味とか。彼が古い発動エンジン付きの危なっかしいボートを操りながら言った。
 「以前より雨量が少なくなったが、なぜか川の水量が多くなった。それにずいぶん暑い日が続くようになった。これから我々が上陸するチュといわれる広大な中ノ島もあと15日ほどで川底となる。5年前は雨季による増水による冠水が3−4ヶ月間だけだったのが6ヶ月間となった。中ノ島にはカーストにも入らない最貧困の人々が住んでおり、完全水没すると中ノ島を追われ陸地で浮浪生活をするため地域の者たちとトラブルを起こす事になる。もうその問題は起きている。我々も何とかしてやりたいが自分の家族の事が第一だ」


広大な中ノ島に向かう

朝の沐浴の人々


まもなくこの中ノ島は水没する

中ノ島にて

中ノ島に上陸する。この島はイギリス系の庄屋の持ち主である。2週間前に稲刈りが終わったばかりとの事。約90日間で収穫でき船頭マジさんは2200キロの収穫から600キロを庄屋に渡す。米からの収入は120ドル程度。しかし以前はさらに野菜などを作る時間が有った。このまま進めば米の収穫前に冠水するのではと心配している。そうなると夕方にやってくる舟遊び客の船頭収入しか無くなってしまう。家族5人暮らしていくには苦しいだろうと船頭マジさんは嘆く。またそれまで陸地の最下カーストの仕事であったものがもっと労賃の安いチュからの人々に回り余計な失業者を生んでしまう。


雨の不足は稲作に影響する


雨が少なくなったという、天候異変の原因は彼には解らない。増水するのが早くなった原因も彼には解らない。地球温暖化による気温の上昇。ヒマラヤの氷河や雪が予想以上に早く溶けそれが増水の原因となっていると学者や国連が発表している。そんな事は彼には解らない。誰の責任であろうか?いずれにせよ罪も無い弱い立場の人々が土地を追われ浮浪生活を余儀なくされ、それが新たな人々の争いの火種となっている。彼らには地球温暖化と引き換えに手にしたベネフィットは何も無い。


日本の仏像に似ている顔立ち衣装の船頭マジさん



木を鋸引きする人々



溶接、かじ屋の老人



ジャイカ派遣指導員が空手の巡回指導をしていた。


ラジャシャヒ市からさらにインド国境を目指してタクシーでぶっ飛ばして(この表現がピッタリ)東へ45分。チャパイの町に移動する。日本館総本部の内弟子であった米陸軍大尉のスコット.ルニー氏がコンサルタントとして滞在していると聞いていた。チャパイまでのドライブでは稲刈り後の農作業が道の両側で行われ、稲わらが所狭しと積まれていた。牛の飼料や屋根、壁用に使うという。道路上まで稲穂が干され、そこを車が走り抜ける。子供たちは本当に水遊びが好きで用水池や川で泳いでいる。但し濁っているのでイキナリ頭が飛び出てくると驚いてしまう。水牛の背からジャンプしている少年もーー。水牛は良い友達なのだろう。日本の昔の農村に余りにも似ており懐かしさを感じた。家は竹組みに稲ワラをかけただけのもの、日干しレンガを積み上げたり竹組の上に泥を塗りつけたものなどが目に入る。


沐浴、洗濯、川は生活の中に



農家の前で

町角の食堂


全員集合



農家の子供

落穂ひろいの子供


脱穀作業の農民たち



道路は格好の仕事場


ホテルに入ったあとチャパイの町や郊外を5時間あまり歩き回る。住民はとてもフレンドリーで私が汗拭き様に首に下げたバングラのバンダナをみてわざわざ頭に締めてくれる人もいた。この町はバングラデッシュでは最も有名なマンゴーの産地、3人が手を回すほどのマンゴーの大木がどこにでもあり丁度収穫のシーズン。一緒に行ったマジ君とラターンさんは「ここに来てマンゴーをお土産に買っていかなければ帰れない」と持ちきれないほどのマンゴーを買っていた。


宣教中のシスターたち

これは中々難しい

この町も川沿いの町で名前はマハナンダ川。私が川岸で眺めていると住民が英語で声をかけてきた。いろいろ話していると「まずお茶でも」と誘われご馳走になる。気になっていた川の増水などについて聞いてみた。やはり季節外れの増水でラジャシャヒ市と同じ問題が起きていた。雨などが降ったら予想以上の増水となり大洪水となる。稲作中心の農業にとって大ダメージであり、小作人はもちろん、さらにその下で生きる人々の糧を奪っていると話した。彼は首都ダカの大学教授でこの家は彼の実家であった。


川舟は大切な交通手段

 

お茶に誘ってくれた夫婦

川原で遊ぶ子供たち

さて一見のどかな町であるがインド国境をはさんでドラッグや武器の密輸、人身売買など治安の弱さから無法地帯を控えている。無法地帯の原因は軍人や警察官に対する住民の信頼がない事、それは軍人や警察官の質の悪さにあり、この悪い信頼関係が無法地帯を生み出してしまっているという。この信頼関係改善を図ろうと米軍コンサルタントのもとバングラデッシュ陸軍、地元警察、現地NGOなどが一体となって改善に取り組み始めていた。「コミニテープロジェクト」を通して一体化を計ろうというわけである。我々には聞きなれた言葉だがこの地域では始めての事という。



バングラデッシュ兵士たちとルニー大尉、本間館長

 

住民と気軽に話すルニー大尉

プロジェクトの学校


フロア工事などは手作業

トイレの増築工事


 このプロジェクトのチーフコンサルタントのルニー大尉は私服でありもちろん武器の携帯もない。このミッションはもちろんバングラデッシュ政府とアメリカ政府の合意の上でしっかりと身分を名乗っての活動であり名刺には米国陸軍と明記されプロジェクト名、両国の国旗が刷られている。民間コンサルタントでは安全の保障が無いため危険時に適応できる訓練を受けたコンサルタントとなれば軍人と言う事になる。それでも常にバングラデッシュ陸軍の警備兵が同行していた。
 官民合同プロジェクトのひとつ公立学校改修工事の現場にいく。バングラデッシュ米国大使館高官も参加し、最終的にはフロアーの交換、ペンキ塗りなどを民間NGOと合同で行ない、今後は隣接する校舎を取り壊し新校舎を建築する計画であるという。

  治安の悪さは住民自身の社会意識の低さも大きく影響している。そこでまずは住民の意識改革を目指そうと地元NGOの青年たちが生活改善民俗歌劇団を始めた。


歌劇団NGOオフィスに



歌劇団の皆さんと記念写真

歌劇団の練習施設に向かう。このユニークな生活改善啓蒙法が成功すれば東ティモールなど他の国にも大変参考になる事と大きな興味があった。25歳前後の男女15人余りが蒸し暑い練習場で汗だくで練習をしていた。結成から二年程度である。家庭内暴力、ドラッグ、子供に対する教育拒否、レイプ、老若のコミニケーションなどを歌劇とコメデーで約一時間演じる。民俗楽器、各自のスカーフ、4本の竹がすべてのセット。毎月給料も含め1000ドルで運営しているが大変という。一時間余りのショーを見学したが「素晴らしい」の一言に尽きた。電気も無く娯楽も少ない部落の旅回り劇団は部落住民の意識改革に大きな影響力を持つ事であろう。ショーの終わりにルニー大尉がバングラデッシュの唱を歌い私が竹の棒を持って踊る飛び入りに多いに湧く。




歌劇団パフォーマンス


語りかける本間館長

唄うルニー大尉

私が以前ルニー大尉に「こう云った感動的ミッションをなぜもっとメディアに流さないのか、米軍の良いイメージも積極的に広報するべきだけど」と訊ねた時がある。彼は「たとえば私たちが田舎に学校を建てたとする、すると直ぐに米国とそりの合わない国が道路を直したり宗教的公会堂を建てたりーーそうなってしまうとその国の人々は支援を利用する事ばかり覚えて自分たちで生産しようとはしなくなる。そうすると支援の意味がなくなる。そんなわけでアメリカ国民はもとより世界の友好国の人々でも我々の活動は余り知らされていない」。私は彼の言葉を裏付ける幾つかの事を思い出した。
 東ティモールにおける中国の「贈り物」攻勢。空からみた首都デリにはいくつもの大きな派手な赤い屋根が見える。TVは中国、台湾のチャンネルが競うように放映されている。台湾も負けていないようで各分野に入り込んでいる。当然そこには収賄など汚職の陰が存在する。この赤い屋根の建物は途上国に実に多い。古いジョークだがコカコーラと白で書いたらよく目立つと思う。
 インドの大津波被害の支援をしたイタリアの再建部隊の幹部が「隣の部落はドイツ支援で部屋が二つ、俺の部落はイタリア支援で部屋が一つ。いらないよ他の国に頼むから」と平然と言う部落長に驚いたという。
 同じく、一瞬にして生活のすべてを失った漁師。それまでは小舟で漁をし、椰子の葉をかけただけの小屋でその日暮らし。しかし津波の後、衣類や食料、屋根用のブルーシート、生活用品Etcなんでも手に入るようになった。それぞれの国の支援団体が物資を持ち込む。漁など馬鹿らしくてしていない。シンガポールで現地支援から戻る途中の日本人支援団体の人の話。支援や援助といっても様々な思惑、そして予期しなかった弊害をもたらす時もある。

 数日の滞在であったが忍び寄る地球温暖化のなかで生活の場を失う人々、生活に追われ社会意識の希薄なところで暗躍する犯罪やテロ集団。富める国は余りにも富、貧の国は底なしである。まずはこの歪みを改善しなくてはすべての問題は収まらない。腹いっぱい食べている人間が貧困者に語る言葉はあるだろうか。一つ明るい事、それは現地の若者たちがそういった問題に取り組み始めている事である。私が先に紹介した歌劇集団に世界のメディアが注目してくれ支援に結びつくよう活動を始めている。

 夕方、一人で3時間ほど歩く。車での移動では見る事の出来ない路地などに入り込める。仏教国であった頃の面影を残す古い寺院や塔が残っている。古い寺を覗いていると近所の子供が鍵を持ってきて中を見せてくれた。中は崩壊しきっていたがかなり豪華であったと思われる。歴史有る文化財が野放し状態で朽ちるのを待っているのは残念である。私は子供たちに礼を述べて別れたが、これが観光客に慣れた国の子供ならすかさず金を求められるがここでは可愛い笑顔が手を振ってくれた。


鍵を開けてくれた

荒れた寺院内

ホテルを早朝5時出発帰路に着く。大きなオレンジ色の朝日。道路は格好の稲干しの場、農民たちが忙しく働く。ヤギ、羊、鶏、アヒル、白牛、食用牛、犬、すべての動物が人間と一体となって朝を楽しんでいる。道路はそこで生活する生き物すべての天国である。しかし70キロで行き交う車にとっては迷惑なはなし。精一杯クラクションを鳴らし追い払いながらの運転となる「轢いたらどうする?」「ひき逃げだね、下手に停まったらアヒル一匹100ドルくらい請求されるよ、店じゃ5ドル。払うまで人が囲んで動けなくなる」タクシー運転手の言葉にのどかな朝の雰囲気が飛んでしまった。文化、経済の発展と既存のライフスタイルとの融合発展、難しい課題を私たちは抱えている。

     平成20年7月16日記
日本館総本部
館長 本間 学 記


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