館長コラム◆◆  

※筆者注:  このコラムは外国人用に書かれたものです。したがって日本人では常識的な事柄も沢山含まれています。また一部文章では読者の賛否の分かれる事柄もあります。私は宗教や神を否定しているのではなく、日本在住の方には理解しがたい、海外で進む「植芝神格化」に警鐘を与える目的です。宗教に関するコラムは危険であるのは充分に承知の上でこの文をまとめました。



植芝盛平は神様か? 日本敗戦の日に思う事
 

 洗面を済ませ、新しい下着に良い方の着物、必ず袴を着け、開祖自ら塩、洗米、お神酒をのせた三方を持ち合気神社に向かわれるお姿、月並み祭には自ら石臼を引き出し、餅をつき、器用に鏡餅に仕上げる手際のよさ。


合気神社に参拝に向う開祖

 日常生活、特に神事のご用をするときの開祖には、稽古着に着替えた道場でのお姿とは全く違った別人のような開祖の姿がありました。
 ある月並み祭の日、蒸しあがったもち米を臼に入れたら、湯気で手元が見えなくなり、かといって両手を使っているので払うわけにも出来ず、思わず息を吹きかけてしまいました。「イカン!」の一喝。ところが本来ならば激怒の収まらない開祖が、しんなりと「神さんにお供えするもんやでー」と実に優しく言い含めてくれたのは今でも記憶にあります。
 神様のお話ではこんな事もありました。今は駐車場になっていますが、以前は畑でした。現在内弟子のキッチンが有る辺りは背丈の低い竹林でした。畑を広げるために竹を刈り取る事になりました。ところが何かと雑用があり、夜にやることにしました。
 その夜は開祖が稽古にお出にならないと聞いており、開祖のご命令での仕事でも有り「稽古サボリ」の大義名分が有ると思ったのです。丁度稽古も終わった頃、開祖に呼ばれました。なんと開祖は稽古に出ておられたのです。「爺さんの稽古に出なーあかんで、何をしておーた。」
「云われた竹刈をしていました」「竹刈はいつでも出来る。爺さんの稽古はもうそんなに長くはできへんでー、神さんにいつ呼ばれるかわからへん」このときも実に優しく、説諭してくれました。「稽古は黙ってやれ!」が武道の世界、特に稽古中の口での説明などを嫌った開祖の全く別の姿でした。
 晩年、開祖の突然の激凛を恐れて、岩間を訪れる高段師範、指導員は皆無に等しく、訪問しても先ずは故斎藤守弘師範に開祖のご機嫌を聞き、ご機嫌の悪いときは道場に酒と玉串のみを置いて帰る始末でした。岩間から開祖が本部に到着したと聞くや、先ずは私にご機嫌を聞き、状況によって何処かに消えてしまう師範、指導員の名は今でもハッキリと覚えています。そのためか本部道場の指導者には、開祖が「神を身近で語るときの優しさ」を知る人は余りいないようです。指導者が此れですから、門人もあの難しい神の言葉を道場で話されている姿しか知らない人が実に多いのです。


電車の中で情報収集、
決して世間離れした天上の人ではない

工事中の新道場を覗く開祖、
著者と角田氏しかいない孤独の時も多かった


翻訳家ジョンスティーバンス氏は自己の出版物にこの一連の写真を掲載、
ハワイ渡航前に祈る開祖――の説明をつけているが、
この写真は開祖が新本部道場で死期迫るある日の早朝、いきなり屋上(完成時は3階)に行かれ、
普段着のまま朝の富士山に祈りをささげた写真で、私と角田氏が撮影したものである。
ハワイ渡航は本部新道場以前である。

 開祖自身が「自分は神である」あるいはそのニュアンス含んだ話をされた記憶は私には無く、常に「神さんの御用を仕っている」「神さんが爺さんに御用をさせている」と表現し、決して自分は神と同等とは語りませんでした。
 確かに開祖は神々を敬い、開祖の神に使える御姿は大変に真摯なものでしたが岩間での日常生活をする姿は「神」ではありませんでした。私自身が若かったのでしょうか、私にはどう見ても生きている「人間」でしか有りませんでした。


 世界の合気道家との出会いは「物事の考え方、価値観」との出会いでも有ります。その方の育った環境に溶け込んだ宗教思想や習慣が空気のように存在し、その方の思考法の源になっているのを最近特に感じるようになりました。

 イスラム教、キリスト教、大乗,小乗仏教、ヒンデゥー教、ユダヤ教、ETC――。さらには、数え切れない流派、分派。それに新興宗教、新新興宗教、個人で信じる神仏も含めその数を知る事は困難です。
 この膨大な数の、しかも互いに入り組んだ宗教を理解する事は不可能であり、私は海外の合気道家を訪問するに時は(とりあえず)一神教と多神教に大きく分け、そのどちら、もしくは混合なのかを認識した上で訪問するようにしています。 
 その違いを認識した上で、訪問国での物事を咀嚼しなくては双方に大きな誤解を生じる場合が有るからです。

 海外の稽古で必ず出る質問があります。それは「植芝は神様ですか?」です。開祖がなくなられた頃よりはるかに多くなりました。質問者は想慕する様であったり、訝る様であったり、微妙そして複雑な心境が隠されている事を私は感じるようになりました。日本人は開祖の死を昇神、入神などと表現しますが、日本人以外の方にとって、説明の無い直訳は「植芝、神様説」に拍車をかけてしまっているのです。原因はこればかりではありません。
 茨城県岩間の合気神社が財団法人合気会か植芝家のものか、日本人すら「別に気にする事も無く」参拝しています。もちろん「当会は宗教とは関わり無い」となる事でしょう。確かに本部道場内にはそういった様子は見られません。しかし岩間の合気神社に於ける「宗教活動」を直接見た外国人達がどの様にその状況を判断する事でしょうか。集まった千人近い人が「天津祝詞」を奏上し、道主を始め、役員一同が神事を行うのを見て「宗教とは関係なし」でもないでしょう。


合気道大祭に参拝の人々

これは明らかに宗教儀式

「世界の合気道」の頂点に有る合気会はこの「不思議」に何も納得のいく説明をしていません。いまや合気道は日本人以外の門下生数がはるかに多い事を考えていないようです。もっとも、日本神道の考えでは「どんな人でも死んだら神様になる」のですから開祖植芝が神様になっても決しておかしく有りませんし、神様になった開祖を神事で奉っても構わないのが日本です。

 第二次大戦中、特攻隊として死んでいった若者たちも、家族子どもを残して戦地に倒れた多くの軍人も、そして罪の無い民間人も神として奉られました。家族や国の為に尊い命を捧げた人々です。しかし日本では軍部戦争指導者責任者たちもやはり「神様」として奉られています。神道においては殺人者も強姦魔も「死ねば神様」なのです。さらには火事も津波も台風も洪水も、そして食虫害、樹木や岩などにも神が宿ると考え、それを敬い、平穏で有る事を祈願します。

 神道の儀式で唱える祝詞の中では余り神々が多くて、「八百万の神」「諸々の神」と表現される始末。「ヤオヨロズの神」ですから800万、この表現は「数え切れない事、莫大な事」を表現する日本的表現で、同じ様に「嘘、800」「800余丁」などとも使われます。
 ですから日本の神々は800万どころか、それをはるかに超える神々が存在するわけです。日本の人口だけでも1億2千万以上なのですから。


 私が始めて朝の参拝を岩間の合気神社で許された時、開祖は私の出身地の事を知っており祝詞の最後に「太平山に御住み給う三吉の大神――」と追加?してくれた事を覚えています。そればかりか「ハワイに御住み給う神々たちーー」とまで奏上されておりました。このほかにも日本神話に現われる神々、仏神一体となった神々など42の神々の御名を、戸を締め切った早朝の合気神社の拝殿で、独特の甲高い声で唱えておりました。開祖の後方で正座をし、両手を付いて頭を下げた状態で膝の痛みに耐えながら神々の名を聞いておりましたが、さすが開祖も全部は大変らしく、お気に入りの神様の後は「諸々の神」と代唱していました。

 現在も合気大祭などで奏上される「合気の大神 」は先に述べた開祖の人生においてご縁のあった42の神様をまとめた「集合神」といえるでしょう。開祖自身その様に説明され、資料も残しています。
 つまり「合気道の神様」はオリジナルの神様ではなく、植芝合気道史に照らし合わせたら50−60年の「新作の神様」でしかありません。しかも「大神」です。ただの「神」ではありません。いわば短期大出世した神様です。
 開祖昇神後36年、いま「合気の大神」=「植芝盛平」との移行が見られます。とくに海外などでの神格化は時には「恐ろしさ」を感じるほどです。しかしこう云った神格化のプロセスはなにも開祖に限った事ではなく、日本の伝統的な「人間が神になる」プロセスでしかなく、日本においては過去に幾つもの例がある事です。


 さて本題、植芝は神様か神様ではないか? 私は決して神様とは思いません。
ただし「神のような人物」であった事は否定するものでは有りません。日本には「あの人は神様だ」「あの人の技は神業だ」などと、偉人英雄を讃え、評価する表現法があります。それは「神のような人」「まるで神様のような技術」などと比較しがたい高度な技術、功績を神と同一視させ評価賛美を格上げするものです。
 こういった表現は当然の様に身内、或いは主従関係、利益の授かる関係にある者が創り上げます。日本人はやがてそういった人物を「神」として容認し、さらには大きな社を建て、盛大な儀式すら行います。その成り生きに異言を挟む者はその組織からの抹消を覚悟しなければなりません。

 この原稿を書き下ろしたのは8月15日、日本が敗戦した日です。60年前の8月15日、昭和天皇裕仁はいきなり「私は人間ですよ」と現われました。そればかりか、ネクタイも着けない軽装長身のマッカサーの横にモーニング姿の元神様は立ちました。敵より30センチも低いションボリした神様でした。
 昭和天皇が「生き神様」の時代の5年間、第二次大戦だけでもどれだけの人間が列をなして「大君の為」死んでいった事でしょうか。その数310万人です。戦争は相手も殺しているのです。その無念の星の数は膨大な数です。人を死に追いやるのに最も悪用された言葉、それが「神」でした。
 天皇を「神格化」し、国民は「生き神様」と洗脳され、それに疑問を唱える事無く、唱えることも出来ず、万歳といって命を散らしました。「時代が時代であったから」と切り捨てる限り日本は同じ事を繰り返す事でしょう。
 現在、韓国、中国など、今後の日本の将来にとって無視する事はできない国々が未だに「重要な懸念課題」としているのはこの問題に原因があります。植民地支配、侵略の蔭でうごめいた神様です。
 まず、日本はそういった過ちを犯した国で有る事を、多くの海外の合気道家は理解すべきなのです。その上で「植芝、神様説」を熟慮すべきでしょう。


 そういった日本人的思考法を深く理解できない外国人日本語翻訳家や、歴史的背景を考慮せず見掛けのユニークさだけを売物とする出版社などの手にかかり「植芝、神様説」が海外に流れました。さらにはそういったものから情報を得た合気道家が独自の解釈を膨らませ「植芝、神様説」は自己の地位を着飾るステータスとしてさらに大きくなっているのが現在の状況と思われます。

 確かに岩間の合気道神社では毎月「月並み祭」、年に一回「大祭」といわれる宗教行事が行われています。神道系の新興宗教団体である「大本教」がその式を「神道」として執り行います。しかしその宗教行事をもって全てを判断してはならないのが日本なのです。
 大本教は開祖が1919年に北海道からの帰郷の折に立ち寄り入信した宗教であって、先祖代々の宗教でもありません。それ以前北海道の白滝村の開墾時代は故郷和歌山から「熊野権現」という神様と仏様が合体したような神様を分詞し神社を建立し、近くの山に幾つかの祠も安置していました。


開祖が発起人とされる上白滝神社

上白滝神社の歴史調査中の本間館長

 開祖の葬儀は大本葬祭で行われ、遺骨は故郷田辺の高山寺の墓所に納められ、開祖は仏教上の名前である戒名「合気院盛武円融大道士」を、大本という神道系宗教に改宗していながらも享けています。墓所は他にもあり京都綾部の大本の墓所、天王平の植芝家代々の墓に納められています。


大本綾部の宗教施設

墓地のある天王平への道

 異なった宗教の墓所に同一人物が眠る事を「平和」と思うか「許されない事」と思うかは一神教と多神教によって大きく異なってくる事でしょう。日本人はこの事に関して極めて柔軟に、悪く言えばうやむやにし「日本はそういう国だ」と逃げ切る事でしょう。むしろ疑問を感じない人も多いと思います。


大本天王平の植芝家の墓地

田辺市にある仏教寺院高山寺にある植芝家の墓地

 日本は多くの家庭では、仏壇の上に神棚を奉ってあったり、クリスマスには爺さん婆さんも孫と一緒にツリーを飾ったりプレゼントを交します。ですから、日本人は一人二つから三つの宗教を持っているケースも有るわけで、統計を取ったら人口よりはるかに多い宗教信者が存在することになります。一神教国の人々にとってこれは理解に苦しむどころか、神への冒涜にもなりかねません。ただし「何か宗教を信じているか」との質問に「ハイ」と答える人が半分を割るのも日本なのです。

 一神教国の多い海外において「植芝は神様か?」の質問に対し相手の心情や宗教心を諮らずしてうかつなレクチャーをする事は大変危険なのです。
 島国育ちの「日本神道」という多神教は気ままで、変化自在、簡単に言えばいい加減、よく言えば涵養であって、それを一神教の熱心な方がまともに受け取ると開祖もとんでもないところに行ってしまいます。

 現在、開祖を神格化し、自分はそのメッセンジャーの如く振る舞い指導している人を見かけます。特にアメリカなど先進国の合気道家に多く、こうゆう方はチベット仏教など東洋の宗教などにも深い興味を持ち、一般的に道場正面に生花を飾り線香をくゆらし柏手を打っている方に多いようです。道場に於ける正面は神道様式であり生花は飾りませんし線香もあげません。日本において花と線香は仏教です。しかし現代的多神教者となっているこの方達にとっては問題とすべき事ではなく、植芝を神と唱えることに熟慮する必要も無いのです。反面海外には、開祖の写真や正面には頭を下げない方もいます。イスラム教、キリスト教系の一部の方々に見られます。

 私が「開祖は神様とは思わない」と答えますと、「なぜ?」と聞かれます。宗教の事に関する話はタブーと承知のうえで、私は慎重に相手の顔色を伺いながら説明をします。そうすると殆どの人が納得し、顔をゆるめ、安堵の表情すら浮かべます。それは他でも有りません、開祖が自分とおなじ「人間」であった事に大きな感動を持つのです。たとえ一神教の国々の人でも本来は大変信心深い方々、疑問があっても「神」といわれれば敬意をもちます。その信仰上の不安と疑問を解く鍵は「植芝、人間説」なのです。

 植芝を神様とする指導者は一般的に奇跡のパワーを説きます。特に開祖晩年の 心境を基として、気であるとか、宇宙との一体であるとか、霊的なものまで引っ張り出します。植芝を神格化することによって説得力が増すからです。しかしその解釈のバックグランドにあるのは、アメリカの場合、バイブル的植芝解釈であり、植芝個人の宗教思考とは全く異なった思考法であると私は考えます。特に開祖の残した「道話」は日本語での理解すら難しいのに、一神教系の思考バックグランドを持った翻訳家の英訳には驚く解釈がなされている時があり、こういった資料が「植芝、神様説」派に大きな影響を与えています。「私は植芝の生まれ変わり」とか「植芝が現われ私に教示をした」など平然と主張する指導者もいるのです。

 開祖は幾つもの峠を越え、激流を渡り、波乱万丈の大航海を乗り切り、その人生86年の中で、心の支えとなった多くの神仏に感謝の祈りを奉げ通して生命を全うした「人間」であり、まさに「神のような人」ではあるけど、数々の宗教背景を持つ世界の合気道家にとっては、開祖は神々の世界に入る事無く、世界の神々を平等に愛して止まない「人間、植芝」であって欲しいと私は考えるのです。

 生身の人間を神格化し、その神を絶対視するあり方、それによって大衆を動かそうとするあり方は世界各国の紛争の根源となる「独裁者」のイメージとも重なり、「愛と平和」を唱える合気道には相応しくないはずです。

 1945年8月15日、日本は焦土と化し、莫大な生命が失われ、神様が人間に戻りました。近代日本の平和はこの時から始まりました。「日本敗戦60年」のこの日、私は「植芝、神様説」が世界の合気道界に忍び入っている事に危惧を感じこのコラムを書きました。

       平成17年8月15日
日本館 館長 本間 学 記

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